学長室の窓

学長コラム:スプーンは、いつもスープにひたりながら

コラム No.2

スプーンは、いつもスープにひたりながら
その味を知ることはない

『ダンマパダ』第64偈より

ブーカの時代といわれる今、生成AIやメタバースなどの登場によって、社会の価値観が根底から変わろうとしている。こうした激変の世にあって、学問研究は何を提示し得るのであろうか。そんな疑問がふとよぎるとき、私は冒頭の原始仏典の一文を想起する。

道具であるスプーンは、どれほど極上のスープにひたっていても、ついにその味を知ることはない。人間は決して道具のごとくになってはならず、どこまでも考える葦なのだ。

先日、そんな思いで古本を眺めていたところ、たまさか75年も前の津田左右吉(1873~1961)の言葉に出会った。

[今の大学教育における主たる問題は、]学問とは既定の知識を他から学ぶものだ、という昔風の考えが何となく学生の間に残っていることです。大学の講義というものは、ある学問について過去の学者の業績や研究を示し、新しく研究すべき余地がどこにあるのか、研究する出発点をどこに置くべきかを説いて、学生たちに学習意欲を起こさせ、学生自らの研究を手引きしてあげるところに主な任務があるのです。講義する教員の意見や学説を伝えるのが主旨ではないのです。ところが学生たちは、一定の学説なり研究結果について、結論として正否を聞かないと心配するらしいのです。諸説があるとき、どうして甲の説が生じたのか、どう考えて甲とは違った乙の説が別に生じたのか、それを理解することが何より大切であるのに、結論として学説のどちらが良いか悪いかという判断だけを聞きたがるのです。しかしそれら[大学の講義]は、他人から聞くべきことではなくして、学生みずから考えなければならないことなのです。
(津田左右吉『学問の本質と現代の思想』岩波書店、昭和23年、p.251の趣意)

当時の大学教育に対する津田博士の所感であろうが、生成AIの登場した今だからこそ諒解すべき現代的な指摘でもあると受け止めたい。

これからの社会は、当然これからの若者自身によって創り上げられるものである。大学の教場でその若者に向かい立つとき、こうして私はその責任の重さを痛感するのである。

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