学長法話:奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】六年度達磨忌
2024年10月26日に行われた、奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】六年度達磨忌法要の際の学長法話です。
改めまして、皆様こんばんは。本日は達磨忌、過日の両祖忌に続いての大事なご法要でございました。仏教専修科の皆さん、先生方をはじめとして、参列いただいたすべての皆様に、ご準備いただいたすべての皆様に、感謝を申し上げます。お陰様で無事に厳粛な式典を営むことができましたこと、まことに有難く存ずるわけでございます。
さて、達磨忌の法要のご趣旨、意味については、本日法要の冒頭に解説いただきました新井一光先生のご紹介のとおりでございます。私ども禅の修行を旨とする宗派においては、もっとも大事な達磨様の、そのお亡くなりを追慕し、祈念する行事だということでございます。翻って今、道元禅師のお示しにもあるこの只管打坐をはじめとする禅の教え、これらが私たち現代人においていかなる意味をもってくるのか、これを今日は少し考えてみたいと思うのでございます。そのためにも、その禅の教えの一端を伝えるものとして『無門関』の第四十一則にある「達磨安心」の話、こちらを紹介してお話を始めたいと存じます。『無門関』は曹洞宗ではあまり読むことは少ないかもしれませんが、しかし、全の教えにおいてはとても奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】な古則でございます。その第四十一則「達磨安心」、まずは本則をお読みします。
「達磨面壁す。二祖雪に立ち,臂を断って云く,弟子心未だ安ぜず,乞う師安心せしめたまえ。磨云く,心を将ち来たれ,汝が為に安ぜん。祖云く,心を覓むるに了に不可得なり。磨云く,汝が為に安心せしめ竟んぬ。」
およそ本則はこのような成り立ちでございますが、ある日、達磨大師の法孫となり教えを受け継ぐことになる慧可様が馳せ参じた時の逸話であります。壁に向かってただひたすら坐る達磨大師に、不安の気持ちいっぱいの慧可様が、「どうか私の心の不安をとり除いて下さい。心をお救い下さい」と、お願いに迫るわけであります。おそらくは想像するに、慧可様にとってその時は、心が不安でいっぱいであったのでございましょう。禅の教えでは、安心することを「あんじん」と、濁って発音いたします。「どうか『安心』というものを私に授けて下さい。安心させて下さい」とお願いしたのでありましょう。すると達磨大師は、「そうか、わかった。では、そなたに安心をさせてあげよう。ならば、ここに『不安』という心を取り出してみせなさい。私がそれを安心して差し上げるから」と、心を差し出すようにうながすわけです。さて、それを言われて慧可様は、不安な心でいっぱい、不安な心に満ちあふれているといっても、その心をどう取り出したらいいのか、そこで戸惑うわけです。慧可様は仰います、「その心を取り出そうとしましたが、見つかりません。不可得です。取り出すことができません」と仰ったときに、達磨大師は即、「そうか、それで今、私はあなたの心を安心せしめたのだ」と、「もう安心だよ」と、こう仰ったというのですね。 この逸話を現代的に読み解くならば、現代人も不安でいっぱいではないでしょうか。世界中で、格差や戦争やテロや、さまざまな人間同士の軋轢がぶつかり合っている、まさに暴力と不安の時代に入っているのではないでしょうか。とかく人間にとって、不安は恐怖を呼び起こします。恐怖は暴力を呼び起こします。そしてその暴力は、最悪の場合戦争へと至るのであります。ゆえに、私たちは不安という中に、その先に人間同士のさまざまな軋轢を生んでいることは、おらくは間違いのないところだと、ゆえに、ゆえに、このような不安な時代だからこそ、己の心を見つけ、見つめ、そして現実を目の当たりに受け止めながら、まずは己の心を安心させることが、安心させることが大事になってくるのではないでしょうか。不安という心は、いつの間にか人間の心を蝕み、そして誤った方向へと導いてしまうのであります。今の時代、達磨大師の安心の教えを、ひとりひとりが大事に受け止めていただいて、そして今日は皆さんに、立派な行持を修めていただきました。とりわけ維那を勤められた須藤君には、堂々とお勤めになった姿、学長としてもとても安心いたしました。そしてひとりひとりがすばらしいお勤めをしていただきました。心から今日の行持、感謝いたしますとともに、ひとりひとりご自身の安心を見つける学びを深くお努めいただきたいと存じます。以上です。
さて、達磨忌の法要のご趣旨、意味については、本日法要の冒頭に解説いただきました新井一光先生のご紹介のとおりでございます。私ども禅の修行を旨とする宗派においては、もっとも大事な達磨様の、そのお亡くなりを追慕し、祈念する行事だということでございます。翻って今、道元禅師のお示しにもあるこの只管打坐をはじめとする禅の教え、これらが私たち現代人においていかなる意味をもってくるのか、これを今日は少し考えてみたいと思うのでございます。そのためにも、その禅の教えの一端を伝えるものとして『無門関』の第四十一則にある「達磨安心」の話、こちらを紹介してお話を始めたいと存じます。『無門関』は曹洞宗ではあまり読むことは少ないかもしれませんが、しかし、全の教えにおいてはとても奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】な古則でございます。その第四十一則「達磨安心」、まずは本則をお読みします。
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およそ本則はこのような成り立ちでございますが、ある日、達磨大師の法孫となり教えを受け継ぐことになる慧可様が馳せ参じた時の逸話であります。壁に向かってただひたすら坐る達磨大師に、不安の気持ちいっぱいの慧可様が、「どうか私の心の不安をとり除いて下さい。心をお救い下さい」と、お願いに迫るわけであります。おそらくは想像するに、慧可様にとってその時は、心が不安でいっぱいであったのでございましょう。禅の教えでは、安心することを「あんじん」と、濁って発音いたします。「どうか『安心』というものを私に授けて下さい。安心させて下さい」とお願いしたのでありましょう。すると達磨大師は、「そうか、わかった。では、そなたに安心をさせてあげよう。ならば、ここに『不安』という心を取り出してみせなさい。私がそれを安心して差し上げるから」と、心を差し出すようにうながすわけです。さて、それを言われて慧可様は、不安な心でいっぱい、不安な心に満ちあふれているといっても、その心をどう取り出したらいいのか、そこで戸惑うわけです。慧可様は仰います、「その心を取り出そうとしましたが、見つかりません。不可得です。取り出すことができません」と仰ったときに、達磨大師は即、「そうか、それで今、私はあなたの心を安心せしめたのだ」と、「もう安心だよ」と、こう仰ったというのですね。 この逸話を現代的に読み解くならば、現代人も不安でいっぱいではないでしょうか。世界中で、格差や戦争やテロや、さまざまな人間同士の軋轢がぶつかり合っている、まさに暴力と不安の時代に入っているのではないでしょうか。とかく人間にとって、不安は恐怖を呼び起こします。恐怖は暴力を呼び起こします。そしてその暴力は、最悪の場合戦争へと至るのであります。ゆえに、私たちは不安という中に、その先に人間同士のさまざまな軋轢を生んでいることは、おらくは間違いのないところだと、ゆえに、ゆえに、このような不安な時代だからこそ、己の心を見つけ、見つめ、そして現実を目の当たりに受け止めながら、まずは己の心を安心させることが、安心させることが大事になってくるのではないでしょうか。不安という心は、いつの間にか人間の心を蝕み、そして誤った方向へと導いてしまうのであります。今の時代、達磨大師の安心の教えを、ひとりひとりが大事に受け止めていただいて、そして今日は皆さんに、立派な行持を修めていただきました。とりわけ維那を勤められた須藤君には、堂々とお勤めになった姿、学長としてもとても安心いたしました。そしてひとりひとりがすばらしいお勤めをしていただきました。心から今日の行持、感謝いたしますとともに、ひとりひとりご自身の安心を見つける学びを深くお努めいただきたいと存じます。以上です。
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