学長室の窓

学長法話:奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】六年度涅槃会

2025年2月7日に行われた、奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】六年度涅槃会法要の際の学長法話です。
皆さん、こんにちは。本日は、学校法人栴檀学園奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】の涅槃会です。三仏忌のひとつの大変奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】な儀式にご随喜下さり、まことにご苦労さまでした。今日は多くの学生の皆さんにもご参列いただいて、学長としてこんなに嬉しいことはございません。関係各位に感謝申し上げます。

さて奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】七年の今回は、学園創立から百五十年目の涅槃会でございました。この大きな節目の行持を皆さんと勤めることができまして大変意義深く、また感謝の念にたえない次第です。明治八年に学園が産声を上げて、おそらくは当時、明治に入ってまだ間もない頃、江戸時代の雰囲気を色濃く残し、また明治維新政府も不安定な時代背景があったろうと推察します。ましてや廃仏毀釈?神仏分離などと、国内は大変な仏教受難の時代でした。そんな中に学園が産声を上げ、おそらくはこの涅槃会も行われ、以来脈々と受け継がれて今日に至ったわけです。その間、第一次世界大戦、第二次世界大戦もございました。あらゆる深刻な自然災害や社会的に不安定な時代も乗り越えて、受け継がれました。近くは3?11の東日本大震災もございました。そんな中でも私たち奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】は、釈尊の遺徳を仰ぎ、三仏忌を受け継いできたという事実は、まことに有難い法縁の結実なのです。

今、世界は激変の時代を迎えています。今朝の国内ニュースの冒頭にも生成AIのことが報道されていました。現代のさまざまな科学技術の進歩とともに、まさに時代が変わろうとしています。しかし、このような時代だからこそ、人が人として、何を大事にして生きなければならないのか、これを考えることが肝要なのです。今朝のそのニュースで、生成AIの開発技術者である某研究者が仰っていました。「所詮、どれほど科学技術が進歩しても、扱うのは人間であり、向き合う側からの人間の心、その心構えがどこまでも大事になってくる」と。その言わんとするところを私なりに受け止めますと、これはおそらく仏教の目指すことと同じなのだと理解したのです。

「人間が人間を尊ぶ」「人間が人間に尊ばれる」これがおそらく、仏教にとってもっとも大事なスタンスかと思われます。日本語としての「人間」との言葉は、ご案内のとおり「人の間」と書きますが、これは「あなたと私」というような“人どうしの間”を意味するものではありません。こうした「コミュニケーション」的な用例は江戸時代の後期あたりからで、明治以降に広く使われたものです。では本来の仏教語である「人間」はどういう意味かと申しますと、「人として存在している期間」、つまり「人として生きている“寿命のあいだ”」ということです。つまりオギャアと生まれ、それぞれの人生を歩み、いつかは息を引き取る、この間の日々をどう生きるのか、どう歩むのか…。これが仏教の最大のテーマでもあるのです。

時は紀元前三八三年の二月十五日、齢八十歳を迎えられた釈尊は、その偉大な生涯を終えられました。それに先立って、インド仏典の『マハーパリニッバーナ?スッタンタ』の冒頭によりますと、釈尊は「これから三ヶ月後に命を終えるだろう」とご自身の寿命を予告されております。おそらくはこれは釈尊がご自身の立場を慮り、滅後に仏弟子たちが動揺しないよう、思い遣りの心から宣告されたものと受け取れます。

かくして侍者アーナンダをはじめ、わずかな仏弟子たちとともに、北へ向かう最後の旅が始まりました。王舎城(ラージギル)を起点に、釈尊の予告通り、その三ヶ月後に命を終えるまで、実に三百五十キロ余りの道のりを踏破されたのでした。 「なぜ北へ向かわれたのか」と思いを馳せますと、私の恩師?奈良康明先生は「故郷を終焉の地とするため」と説明され、これは中村元先生も同じように仰っておられましたが、しかし偉大な先生方に異を唱えるのは恐縮ですけれども、はたして釈尊ほどの方が、個人的な思いを遂げるかのように故郷を目指したのか、そこに私は若干の違和感を覚えるのであります。おそらくそれだけではないのではないか。実際、北への旅は単純なルートにはなっていないのです。ヴァッジ村やパーヴァー村というようなところを巡られるのでありますが、それらはおよそ戦争や流行病で多くの方が亡くなった、そういう苦しみに沈む人々の心を癒すように釈尊は巡行されたのでした。あくまでも想像ですが、おそらくは当時の大戦乱のさなかにあって、釈尊は平和への祈りや尊い命への思いを背景として巡られたのだと思われ、その先に北方の聖なるヒマラヤがあったからでありましょう。(四門出遊や北枕の故事でも、北方であることに特別な意味があります。)

その日、釈尊は体調すぐれず、鍛冶屋のチュンダが用意してくれた朝食を召し上がられると、にわかに激しい腹痛に見舞われたのです。キリスト教では「最後の晩餐」というものがありますが、釈尊の場合は「最後の朝食」となったのです。チュンダは、ご高齢の身で長旅にあった釈尊へのいたわりの気持ちから、出来るだけ健康によろしいものを用意したつもりだったのでしょう。しかし、その中にマッダヴァスーカラというものがあったようで、これが一説には茸の料理とも、あるいは野豚の肉料理とも言われているものです。これは私の推測ですが、体力が弱い時には浄肉と言いまして、自然死した動物の肉を薬として食することもあったようですから、あるいは半焼きの豚肉料理だったのかも知れません。

いずれ、釈尊はそれを口にいたされますと、他の人にはそのマッダヴァスーカラを食べないようにと注意され、供養のお布施でありますから、敢えてそれを食されたのであります。激しい腹痛に襲われた釈尊でしたが、それでも歩みを進まれようと二十たび以上も立ち止まりながら、しかし、もう一歩も前に足が出なくなったその時、眼前にはサーラの林が広がっていたのでした。真っ白な麗しい花々で彩られた林、その中にひときわ大きなサーラの樹が見えます。

「アーナンダよ、私は疲れた。横になりたい。」
「アーナンダよ、あそこにサーラの樹が二本大きく立っている。そこに枕を北にして、床をとっておくれ。私は休みたいのだ。」

仏典そのままに申し上げておりますが、私は釈尊というお方が、どこまでも普通の人間として描かれた、もっとも麗しい表現がここにあると受け止めています。侍者のアーナンダは旅の途中、四枚のお袈裟を持ち合わせていました。ちょうどその時、近くを干し草を刈り集めて自宅へと運ぼうとする農夫が通りかかります。アーナンダは、その吉祥草と呼ばれるそれを頂くと、指示された場所へ敷きつめ、その上にお袈裟を敷いて簡易の床をとられました。仏典には、「まるでライオンが悠々と横たわるように釈尊は休まれた」とあります。

すると釈尊はアーナンダを呼び、「ひどく喉がかわいたから水が飲みたい」と仰います。ところが近くのカクッター川は、多くの荷車が通ったばかりで水が濁っており、とても飲めるような状態ではありませんでした。困ったアーナンダは「もう少し上流へ行ってからお水を」と勧めますが、「ここでよいのだ。とにかく汲んで来ておくれ」と、三度お願いします。仕方なくアーナンダは改めて川に向かったところ、なぜかそれまでの濁水が川底まで透き通っていたのでした。頭鉢に汲んだその水を釈尊はきれに飲み干されますと、そこで最後の別れの言葉となったのです。

ちなみにこれらの故事が、「北枕」や「末期の水」の作法となって、通夜のしきたりとして今日に受け継がれているのです。

最後に、釈尊の遺言の中でもっとも有名な「自灯明?法灯明」という言葉をお伝えしたいと思います。釈尊は嘆き悲しむ仏弟子たちに「我が滅後は自己を灯明(中洲)とせよ。そして教え(法)を灯明(中洲)とせよと仰いました。それらはこの世の暗闇を照らす灯火であり、あるいは大河の激流にあって決して流されない島であるから、それを頼りにしなさい」とお伝えになったのでした。

これは一体何を意味しているのでしょう。受け止め方は様々かも知れませんが、私は思うのです。いついかなる時代にあっても、またどのような人間社会になろうとも、己が己として自分自身をしっかり見つめることができること、さらに正しい教えをしっかりと学び、常に忘れることなく自分の鏡として持ちあわせていること、この揺るがないふたつがあれば、人は正しく真直ぐに生きられるのではないかと思うのです。

釈尊は最後の説法をこのようになさった後、「すべてのものは移ろいゆくので、怠らず修行に励みなさい」と告げ、眠るように息が自然に遠のいていったということであります。

これが偉大なる人間の死、私たちのすべてが理想とすべき終焉のお姿であります。そこには民族も、国籍も、時代も、男女も何ら違いはありません。万人にとって目指すべき理想のご生涯があった。それゆえに、おそらくは後世に伝わる「涅槃図」には、大勢の人々や、あらゆる天の神々が、そしてあらゆる虫や動物たちが、人間釈尊の死を悼み、嘆き悲しんでいる姿として描かれたのです。

私の自坊の「涅槃図」には、ミミズやコオロギが涙を流して泣いている絵が描かれています。正直、ミミズが泣くことはないかも知れませんが、ただ思うのです。虫や動物たちまでその死を悲しんでくれる、それほどの尊く、親しく、愛おしく、また敬われるべき一生を釈尊は送られたのだと絵は存分に物語っているのだと思います。

仏教専修科をはじめ奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】の皆さん、私たちも、与えられた一生は釈尊とまったく同じ、一度きりの尊いものです。どのように生きて、どのように時間を刻んでいただくかをぜひ深く考えていただきたい。もしそこに人の魂の尊厳というものを現すことができますれば、皆さんも立派な仏さまの生涯を送ることができるだということをお伝えして、今日の法話といたします。以上です。

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