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仏教専修科

活動記録:奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】三年度涅槃会

活動概要

二月十日に奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】三年度降誕会の法要を行いました。
左が今春上山の三田村君、右が同じく児玉君です。

学長法話

それでは私より本日のご法話を申し上げます。

ご案内のとおり、本日はお釈迦様御入滅、お亡くなりの日をお祈りする涅槃会の儀式でございました。維那を務められた学生の方、また参加いただいた学生諸君にはこの場を借りて心より感謝申し上げます。

さて、二月の十五日。この日は冒頭にご紹介いただきましたように、仏教徒にとって、年間を通じて三仏忌というもっとも奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】な儀式に数えられるものであります。宗派を超え、国を超え、あらゆる違いを超え、世界中の人々が皆、お釈迦様をお慕いする者すべてがこの日を大事にするわけでございます。世の書物には紀元前463年から383年までといういわゆる中村元先生の説が定着しているようでございます。今ではそれよりもさらに100年くらい遡るであろうといわれているようでございます。諸説がある中でも、こうしてお釈迦様という方がこの世にお生まれになり、御説法を示され、そしてこの世を旅立たれた、この世を生き抜かれたというこの事実を、2500年近く経った現在の私たちがそれを仰ぎ見るということはまことに稀なことであります。尊いことでございます。かの道元禅師様も、「お釈迦様がお生まれになる前の方々はお釈迦様の言葉を聞くことができなかった。これはまことに残念なことである」と、「今われらは正し教えに出会い、お釈迦様の遺徳を仰ぐことができることはまことにありがたいことだ」という趣旨のことをお示しになっておられます。コロナ禍にあって、私たちも様々な災難がありますが、お釈迦様のお示しになった普遍的なダルマ、教えの法は、今の私たちにとってもかけがえのない救いの言葉となっているものと思われます。

『マハーパリニッバーナスッタンタ』という経典には、お釈迦様お亡くなりの主に最後の三ヶ月あまりのことが記されております。王舎城を旅立たれ300キロあまりの旅を乗り越え、最後はクシナガラという小さな村でそのご生涯を閉じられました。その間、お釈迦様は老いと病の体を押して懸命に足を前に、歩みを進められるそのお姿に、私たちはお経の言葉を通して感動を覚えるものでございます。ヴェールヴァ村まで参りました時、お釈迦様は今までにない激しい激痛に見舞われたと、スッタンタは述べております。おそらくは、パーピマンといわれる死の悪魔が、死を誘うために色々誘惑したのだと言われており、お釈迦様はその時すでにご生涯で四十五回目の雨安居をお勤めになっておいでになったと記されております。ヴェールヴァ村はとても小さな小さな村で、その村にお釈迦様をふくめ五百人ほどの教団が屯していたそうであります。とてもその村では安居をすることができないということで、その小さなヴェールヴァには、お釈迦様と侍者のアーナンダのみが泊り、あとは近くのヴェーサーリーという街に赴き、五百人近くのお弟子様方がそれぞれのホームステイをされて安居を致されたとあります。今のように大きな伽藍が地方ごとにあるわけではありません。今で言うホームステイのような形で、信者様のお家をお借りする形で安居を勤められていらっしゃいました。日々、お釈迦様とのお約束事の戒律を守りながらご生活致されておりました。

ところで冒頭に「三拝」「九拝」のお話のご案内がありました。おそらくは、私の知る限りですが、仏教はこの三という数を大変奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】な数とお示しであります。お拝をされるのは、おそらくは身口意 — 昔は身語意とも申しましたが — つまり身体、言葉、心、この三つを、戒めによって整え、さとりに近づくために私たちが努力することをこのお拝の形にされたと思われます。同時に、三宝、三蔵等々、三という数字は仏教ではとても尊く仰ぐものであります。三世の御仏も同じであります。ゆえに人々はその三になぞらえて、身口意の三業を整えるとともに、仏様の仏法僧の三つの宝を仰ぐ、こういった意味が後に重ね合わせられていったものと思われます。

いずれにしましても、四十五回目の雨安居を迎えられたお釈迦様は、今にも死を受け入れんとするところまで行きましたが、「今ここで死ぬわけにはいかない」と、後に述懐されております。それは最後に仏弟子たちに訓戒を示してからこの生を終えたいという、強い思いがあられたようであります。侍者のアーナンダは、お釈迦様があまりにも偉大であるがゆえに、お釈迦様が次の後継者は誰なのかということをご指名されてお亡くなりになるだろうと期待されていたようです。すると、その期待を察してお釈迦様がこう仰られたのであります。本日は南伝大蔵経を手元に写して参りましたので、その部分をお読みいたします。

「アーナンダよ、それでは比丘たちは私に何を待ち望むのであろうか。私はすでに、内も外もすべて拭き終わった。アーナンダよ、如来、私には、何事につけても弟子たちに惜しみ隠すような師拳というものはまったくない。」 「師拳」というのは「アーチャールヤムシュティ」と言って、先生が手の内に隠して、秘密事があるという意味でございますが、それらはまったくないということであります。

「アーナンダよ、もし私に、『私は教団を統率しよう』『教団の皆はすべて私の弟子である』と、そういう思いがあるとするならば、アーナンダよ、私は君たちに関しての何らかのそれらの発言をなすであろう。しかし、アーナンダよ、如来にはそのような考えは毛頭ないのである。ゆえに、どうして私は、教団に対して何事かの発言をするであろうか。アーナンダよ、私はすでに老いさらばえ、老朽し、齢八十となった。アーナンダよ、あたかも古い車が革紐の助けでようやく動くようだ。如来の体も革紐の助けで何とか動いているのだ。アーナンダよ、私はすべての思いを整え、苦痛を乗り越えたゆえに、禅定にあるため、そのゆえ私の体は、実は安快なのである。さればアーナンダよ、お前たちは自らを燈明とし、自らを拠り所とし、他を拠り所とせずに、法(教え)を拠り所とし、教えを頼りとして、他によらずしてあれ。それでは、アーナンダよ、汝らが自らを燈明とし、自らを拠り所とし、他によらずしてとどまるならば、わが弟子たちは、学ばんと欲するものの最高位に達することであろう。」云々。

本日は、お釈迦様のお亡くなり、その般涅槃をお祈りする行事でありましたが、お釈迦様はその最後の言葉を何とかお弟子様たちに伝え、このように、ある形を遺してお亡くなりになりたいと、最後まで歯を食いしばって生きられたのでありました。そのお気持ち、ご趣旨がどこか心に響くものがあれば、本日の行事はありがたく存ずる次第であります。その後、パーヴァー城に入られたお釈迦様は、朝ごはんにチュンダのマッダヴァスーカラという朝食をとられた後、俄かに具合が悪くなり、それでも歩みを前に進められ、都合二十五回ほど、歩けなくなってしばし立ち止まったとあります。終焉の地はクシナガラのほとりとなるわけでございますが、この法堂では室中という奥の間に涅槃像の掛け軸としてそのご様子がかけられております。あのサーラの白い花咲く林の中、枕を北にしてまるでライオンのように横たわって、最後の説法を述べられてこのご生涯を閉じたとあります。「願わくは花の下にて春死なん、その如月の望月のころ」平安時代の歌人、西行法師の歌も示されるように、二千五百年の時を超えて、私たちは、人間釈尊として生きられたその偉大な命の全うの尊さを、改めて心に受け止めて、わが身に引き当てて、深く味わいたいところなのでございます。

言葉が調いませんが、本日、涅槃会、お釈迦様のお亡くなりのご様子のその一端を申し上げ、今日のご法話といたします。

どうぞ、春は別れと出会いの季節。ご卒業の皆さんはお体に気を付けて、お釈迦様のお言葉のように、人生は、ひとつひとつ、小さな一歩で結構です。ご健康を心からお祈り申し上げます。そして、四月からまた、三年生以下の在学生にはコロナ禍の徐々に落ち着くことを期待しつつ、互いに励まし合いながら学びを続けて参りましょう。以上であります。