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仏教専修科

活動記録:奔驰宝马游戏大厅_电子游戏APP下载-【唯一官网首页】三年度お盆供養

活動概要

 今年のお盆供養はコロナ禍のためオンラインで行い、各施設に配信しました。動画の収録は法堂で行いました。

学長法話

改めまして、本日は施食会、厳修いただきまして、お力添え皆様まことにお疲れ様でございました。ありがとうございました。

どうぞ足の方は楽にしていただいて、学生の皆さんは特に、足の方は楽にしていただいて結構でございます。

さて、ただ今、進行の先生から施食会ということでご案内がございました。食を施す、つまり食べ物をさしあげて施しをすることによって亡き御霊にご供養申し上げる行事でございました。いわれは、ご案内のとおり、お釈迦様の十大弟子のひとり、阿難尊者という方が、インドの言葉ではプレータと申しますけれども、鬼にさまざまな食べ物を施したところから来ているといった、陀羅尼の経典がもとになっております。いずれにしましても、施食会、肝要な言葉は、この頭にあります「施し」ということかと思います。「施す」。サンスクリット語では「ダーナ」と申します。したがって昔から、施す人のことを「旦那様」と、こう申し上げるわけでありますが、今、日常語では「旦那さん」と言うと何か男性を指すように思われるかもしれませんが、元々は「施す方」ということでありまして、したがって施しの心を持っている方は皆、「旦那様」ということであります。ちなみに、英語圏では「ドナー」という言葉の語源にも「ダーナ」はなっております。いずれにしましても、「施す」ということが今日の施食会の一番本願のテーマと申し上げていいかと思います。

曹洞宗をお開きになった道元禅師様は、『修証義』の中にも記されておりますけれども、『正法眼蔵』に記されているとおり、「治生産業もとより布施にあらざることなし」とお示しであります。「治生産業」つまり、この世界で、あらゆるやり取り、生活にかかわるすべての営みは、施し、施されるその「施しあい」がすべてであると、基本であると、こういうことであります。お布施とか、あるいは今日のような仏堂行事の施しというと、何かお坊さんの特許のように思われるかもしれませんが、もちろんそれだけではありません。いや、もっと広い意味で、すべての営みが施しであると。たとえば、サラリーマンのお父さんやお母さんがいた場合、会社に「お仕事」、「労働」という施しをするわけですね。で、逆に会社は「この一ヶ月間ありがとうございました」といって、「お給料」という施しをされる。こういった具合であります。すべての人間の営みの基本に、施し施される感謝の気持ち、これがこの世界すべての人間の活動を突き動かしている、いわば施しが人間活動のもっとも根源となる原動力だということを、私たちは知ることになります。いや、何もお金や物だけではありません。道元禅師もお示しのように、あらゆるものがそうですから、たとえば、大谷翔平選手が素晴らしいプレーをした。野球とか人間の可能性、勇気とか、元気というものを私たちにお布施してくれているわけですね。私たちは、「ああ、生きるって素晴らしい」「人間の力って素晴らしい」自然に拍手という贈り物、お布施をするわけですね。これも立派なお布施であります。ゆえに、私たちは、心の動きから生活の営みにわたるすべての人間活動はこの、施し施されるというこの「施し」ということからすべては始まっているということであります。

今日は皆様に、特にお亡くなりになられた方へのご供養を含めての施しをさせていただきました。こちらには「施食棚」という棚が設けられ、山海の珍味、海山の貴重な食べ物など、美味しいものをこうして施し申し上げるわけですね。昔からこの施しを「五供養」とも申します。五つの供養と書いて「五供養」と言います。お線香、お水、お花、お供物、そして合掌、この五つを、五つの供養と書いて「五供養」と申し上げる言葉もございます。香り、お線香や、このお焼香の煙が、仏様に最初のお召し上がり物になります。仏様になると昔から、ガンダルヴァと申しまして、「食香」とも訳されるのですが、この香りや煙が最初にお召し上がりいただくお食事になります。そして、お線香そしてお花。花は、花供養は、私たちの心を癒やしてくれるものでもあります。ですから、お花だけは仏様に向かずに私たちの方を向いています。ある意味でこれは、私たちの日常の生活のなかで心を平らにする「花修業」という言葉も別にあるように、私たちは花を見て、これは不思議なものです。世界共通です。花を見て怒る人は誰もいません。花を見ることによって、心を落ち着かせ、そして自分の日頃の心を省みて、穏やかな気持ちになる。いわば花の修業であり、そしてそれが、麗しさをお届けして仏様へのご供養のふたつ目にもなる。さらに、加持祈祷の中ではお水も捧げました。喉の渇きを潤して、そして、万物の根源は水であるという考え方も世界にもありますように、お水は生きる上で、命あるものにとって大事なもの。そして四つ目はお供物。海山の、山海の珍味を今日はお供えいただいております。そして最後、これが肝要ですが、合掌であります。仏様と自分が、手を合わせるように心を重ねて、そして私たちは亡くなられた命とそして未来の命もふくめて、今の命が生きていると、こういうことであります。手を合わせ、心を合わせて、そして今の自分の生きるという命をふりかえりつつ、今日は「ありがとう」「お陰様」という気持ちを皆様にもお捧げいただいたということであります。「お陰様」、つまり、今の私たちは陰の力によってすべて支えられ、導かれて、今の私がいるということであります。先祖のいない私たちもいません。誰かの支えのない世の中も成り立ちません。今の私たちの生活すべては、誰かの「お陰」で成り立っている。ゆえに、「お陰様」という麗しいご挨拶が、わが国には昔から「ありがとう」の意味で使われていますが、その「お陰様」の気持ちが最後の合掌。

色々、コロナ下でありますから、お話を短くまとめなければなりませんが、いずれにしましてもこのご供養を皆様にはお供えしていただきました。最後に、もうひとつだけ。途中、お経の中で陀羅尼があったと思います。「唵。冐地即多。母陀。波多野迷」(おんぼうじしっだぼだはだやみ)そして「唵。三昧耶薩坦鑁」(おんさんまやさとばん)というふたつであります。「唵」(おん)というのは、「阿吽の呼吸」と語源は同じであります。生まれるときは「あー」と生まれ、亡くなるときは「うーん」と息を引き取って行きます。つまり、生命の誕生から死までを一言にまとめて「阿吽」であります。「冐地即多」(ぼうじしっだ)は菩提心、つまり仏の心。「母陀。波多野迷」(ぼだはだやみ)、これはサンスクリット語で、その心、仏の心を、菩提心を「起こそう」という、こういう “I will” という意味であります。すなわち、「唵。冐地即多。母陀。波多野迷」(おんぼうじしっだぼだはだやみ)は、「私たちは縁があってこの世に生まれました。生きています。そのお陰の力で生きている。ゆえに、宿っている私たちの仏の心を、私自身がこれから生かしていきます」という趣旨が、「唵。冐地即多。母陀。波多野迷」(おんぼうじしっだぼだはだやみ)でありました。すると、仏の力に生かされている今に気づいた時、「唵。三昧耶薩坦鑁」(おんさんまやさとばん)と、こうなるわけですね。「唵」(おん)は同じです。「三昧耶」(さんまや)は英語の “same” と語源が同じ、つまり「三昧耶」とは「平等」と訳される言葉であります。「薩坦鑁」(さとばん)とは「存在」。つまり、仏に生かされている自分の気持ちの仏心を起こしたとき、気づけば、「生きとし行けるものみな、平等にこの世に存在していた」ということであります。小さな虫も、大空を飛ぶ鳥も、そして人間はもちろん、どこかで私たちは、「お陰様」でつながっております。そして「その命は、どこか平等である」という考え方が、そこに生かされる教えであります。

壮大な話になりましたけれども、今日は施食会にちなんで、肝要なところだけは申し上げたつもりであります。「この施食棚、どういう意味かな」「この旗はどういう色の旗の意味があるのかな」、そんなことは、どうぞ学生時代に自分から学んで調べていただくと、色々と面白いことがわかって参ります。今日の施食供養、授業としての成り立ちとともに、皆様には本当に心の、真心の施しをしていただきましたので、学長として深く感謝いたし、「お陰様」のご法話とさせていただきます。以上です。

理事長訓示

みなさんこんにちは。一年生は入学して三ヶ月ちょっと経ったところだと思います。この仏教専修科の行事等々の練習は何回かにわたって行っていると聞いております。本来であればもう少しできたのだろうと思いますが、今日は三年生、四年生が中心になって、行事の配役を受けてやってきたということなので、しっかりとやっていただきたいと思います。配役のない方はそれをよく見ていただきたいと思います。本来この施食会、皆、各お寺でやっていることでございますので、皆さんも、見れば「自分のお寺でもやってたな」と、わかると思います。そういうことも踏まえて、この行事に参加していただきたいと思います。そして、余談ではありますけれど、この仏教専修科の行事、これも大事な皆様の勉強でございますけども、学部の勉強を一所懸命やっていただいて、そしてひとつひとつ、進んでいただいて、卒業にむけて進んでいっていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。