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VOL.39 NOVEMBER 2006

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投稿

●「障害者」という言葉についての一考察

社会福祉学科 M.K.

 『With』38号のひろばで論じられていた「障害者と呼ばないで─障害をもつ子どもと生きる親として」と題された投稿を読んで私も思うところがあり,一筆投稿します。
 まず障害という言葉がなぜ疑問を持たれ,不自然さ,不快感を感ずるのかであるが,障害者という言葉を私なりに解釈すると,障りある害を持つ者となるであろう。何かに障りのあるのは良いとして,それが「害」(このときの意味は,わざわいとなるのであろう)というのが悪いのだろう。加えて,障りあるとして,自分の行動などに対して障りあるだけならまだしも,考えようによっては,社会に対して障りある害のある者となると,冒頭の疑問も,障害者という言葉にうなづけない気持ちもわかる。
 この筆者は,障害者の代案として,「被障者」という言葉を提案して,読者にも何か案がないか論じてほしいとのことでした。筆者が「障」という言葉を残しても良いとのことなので,いっそのこと「障者」または「障持者」(障りあるものを持っている者)はどうだろう。障害者は,やはり自分や社会に対してマイナス面も持っていることは事実であり,その注意にもなると思う。また「障疾者」というのはどうであろう。「疾」の意味には,病気または病気になる,という意味もあり,障りある疾をもつ者となれば,害よりは良いと思う。
 しかし,障の字を残すと,枕言葉に「社会に対して」と付けたくもなり,障の字も除き,いっそ「困救者」としてはどうだろうか。困り救いを求める者という意味である。身体困救者,知的困救者,精神困救者などである。本来は困窮者という字を使うのであるが,「窮」の字には「おわる,苦しむ,貧しくなる」という意味もあり,それよりは「救」の字をあて「困救者」というのも一案だと思う。また.困っているという字を使い「困障者」「障困者」「困疾者」という言葉も考えられる。
 以上が私の拙考であるが,いまいちの感がある。なぜであろうか。それは,障害者のような弱者を救済し,なおかつ表す言葉を探すと,結局は「求愛者」「受愛者」というようなその人のすべてを救う言葉しかないような気がするからである。それよりも「障害者」という言葉に対する社会的イメージを変えていくことが,障害者にかかわる者の,そしてまた障害者自身の今後の役割ではないだろうか。今,福祉を取り巻く環境が確実に変わってきている。ボランティア活動なども広く知られるようになった今だからこそ,その対象である障害者の本当の姿について広く知ってもらい,いわゆる健常者サイドの持つ障害者についての悪いイメージを変えなければならないと思う。
 話は少し変わるが,アメリカ原住民の社会では,かつて,障害者は神に最も近い存在として崇められたと聞く。このことを当大学のある教授に話したところ,日本でも同じようなことがあったのですよ,とのことでした。障害者と聞いて,または見て,神を感じるような,または愛や優しさを感じるような社会でなら,冒頭のような疑問など起こるはずはないと思います。
 単なるレッテルの貼り替えでは実体は何も変わらないことは,この筆者も指摘する通りだと思います。障害者とかかわることになったことが運命ならば,社会に対する障害者のイメージを変えるよう努力することもまた運命かもしれません。福祉が注目されている今,この時を逃さず,福祉関係の仕事に就いている私も努力しなければならないと思います。
 ただ最後に言いたいのは,障害者は社会という大きな組織の障害にならないまでも,障害者が持病などを発した時に,または困っている時に誰かの手を借りなければならないこともあるのです。その人の手を止めて障害者の助けをしなければならないのです。障害者の自立が叫ばれ,社会進出を余儀なくされている今,そのような状況になることもあるという注意のために障害者という言葉をあえて残すことも勇気だと思います。注意とは「意を注ぐ」という意味です。助けた者が,そのことを良く思おうが悪く思おうが,その人の社会的な動きを一時止めることは事実なのですから。

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