【シリーズ?東北】
世界一の銀メダリスト
昭和39年東京オリンピック,日本武道館は異様な静けさに包まれていた。そのとき国民に期待されていた一人の男が寝ながら天井を見つめていた。
今回は仙台市出身の柔道家,神永昭夫氏の生涯について触れてみたいと思います。神永氏は昭和11年に仙台で生まれ,この時代の日本では珍しいほどに体の大きな少年でした。
神永少年はその大きな体をいかすために柔道を始め,実力は群を抜く強さでした。東北高校柔道部時代,神永と稽古するのは命がけだと恐れられ,実際に稽古をした後の相手はしばらく起き上がれないほどだったようです。また,柔道の総本山である講道館の紅白試合では高校生では異例の18人抜きという離れ業を成し遂げました。
その非凡な実力をかわれ,全国でも指折りの強豪,明治大学に進学しました。明治大学時代,学生団体日本一を懸けた試合は代表戦までもつれこみました。明治の代表はもちろん神永。神永は代表戦で引き分け。当時は判定がなかったため,2度目の代表戦が行われました。ここでも明治は神永を代表に選出しました。たった今,試合を終えた選手をまたすぐに出すのは極めて稀です。明治の他の選手が頼りなかったのではありません。それほどまでに神永を信頼していたのです。そして,神永は2度目の代表戦に勝利し,明治を日本一に導いたのです。
大学卒業後,神永氏は全日本柔道選手権に優勝し名実ともに日本一になった神永氏は,東京オリンピック柔道競技無差別級の日本代表に選ばれました。
代表選手は神永氏を含め4名。関係者はもちろん,全国民が全階級制覇は固いと信じていました。その期待に応えるように,軽量級?中量級?重量級の代表3選手は見事に金メダルを獲得しました。そして柔道競技最終日,無差別級の神永に日本国中が注目しました。
予選リーグで1度は敗れたものの,敗者復活戦で決勝まで勝ちあがり,決勝の相手は予選リーグで神永を破ったオランダのアントン?ヘーシンクでした。
ヘーシンクは身長2メートル,1メートル80センチの神永は柔道の基本である技とスピードで勝負をかけました。しかし試合開始から9分過ぎ,ヘーシンクの抑え込みが入り一本負け。日本中が涙を呑みました。
その翌日,神永は所属していた会社を訪れ,何事もなかったかのように仕事をしていました。また,人々から罵声をあびても,カミソリが入った封筒が送られてきても,すべては自分が悪かったという姿勢を貫き,心無い人の言動を正面から受け止め,責めることなど一切しなかったそうです。それだけ自分に厳しく,紳士的であり,すべてにおいて模範的な存在でした。精神力と人間の大きさは世界一だったのです。
神永氏は病魔に体を蝕まれても,それを見せず,最後まで日本柔道のために大きく貢献しました。そして平成5年の春が訪れようとする頃,56歳の若さで亡くなりました。「今年ももうすぐ桜が見れるな」そんな言葉を残して。
(WEST)
参考資料
近代柔道 ベースボールマガジン社
JOC?連載?東京オリンピックから40年。 宮澤正幸
(http://www.joc.or.jp/stories/tokyo/20040527_tokyo01.html)